上機嫌でいこう。

本とか、音楽とか。本は新書を読むことが多く、音楽はクラシックやサウンドトラックを中心に。映画やDVDも好きで見ています。

説得されにくさを保持するということ

おはようございます。


私は自分のことを、説得「されやすい」人間であると思っています。そして、それは時にして悪弊となってしまうことがあるとも思っています。そうした傾向は、たぶんPCのサポート関連の業務をやっていたことや、産業カウンセラーの資格講習を受けていたこととも関係がありそうです。つまり、人の話をまずは聴くという態度が身についているようなのです。それはもちろん、「美点」として働くこともあります。特に、対人関係においてはそうだと思います。


しかし、です。人は時として、説得に応じてはいけない場面もあるのだと考えるのです。例えばそれは、「力」「影響力」を持った人たちに対してという場面において、特にそうなのだろうと思います。ただでさえ、「風上」から「大きな声」で話をしているのですから、私たちのような者の小さな声はかき消されてしまう可能性があるわけです。大きな声に小さな声がかき消されないためにも、「説得されにくさ」というものは保持されていなければならないと思うのです。なぜならば、仮に「全員一致」になってしまうと、それが「間違い」であった場合に訂正する余地がなくなってしまうからです。そのためにも、「小さな」「弱い」声は保持されていなければなりません。それはつまり、「他者」を抱え込むことで「多様性」を担保しておくということになるのだと思います。


またそれは、「時の趨勢」というものにも抗する場合でも考えられなければならないことだと思います。つまりは、忘却という圧力に対する抵抗です。人の記憶というものは、特にそれが都合の悪いことや反省しなければならないことについては、放っておけばなくなってしまうものです。ですので、ここでの「説得のされにくさ」ということは、「忘れない」ということに他なりません。


ここに来て、私はある文豪の言葉を思い起こします。


人間の、権力に対する闘いは、忘却に対する記憶の闘いだ。


説得されることを時として拒むこと、忘れないこととは、繰り返しますが「他者」との「共生」を考える時には必要な態度なのかもしれません。

 

f:id:pinecone0316:20161011161627j:plain