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上機嫌でいこう。

本とか、音楽とか。本は新書を読むことが多く、音楽はクラシックやサウンドトラックを中心に。映画やDVDも好きで見ています。

教育とその不在

こんばんは。今回も、「暴論」シリーズ?をお届けします。

この社会は、いつの頃からか「教育」を放棄してしまっているのではないかと思わされることがあります。それは例えば、「即戦力求む!」といった求人広告からも伺えます。そこから私は、「わが社では人を育てる余裕がありません」とか、「人を育てるつもりはありません」というメッセージを読み取ってしまいます。人を育てる「コスト」を負担せずに、その成果だけをつまみ食いする、といった浅ましさを感じるのです。

しかしながら、それは「最近」のことなのかという疑問がわいてきます。つまり、教育を忌避する傾向は、この社会には遍在していたのではないかということです。今までの「教育」は、「人」つまり、それを担う人の個性や努力に依存していたのであって、必ずしも社会全体が負担し、システムとして執り行われていたのではないのではということなのです。

「教育」が、「人」に依存するということは、その「人」が不在となれば、たちまちにして教育資源や教育機能が枯渇するということです。とはいえ、新しい「人材」は、コンスタントに供給、つまり育成されていなければなりません。それができなければ、その組織や社会は衰退してしまいます。

例えば政党。いくつかの政党を見てみると、次代を象徴する「スター」が見えてきていません。その点では、共産党公明党は、若い人材のリクルートが比較的うまくできているように思われます。ところが、民進党社民党では、ポスト蓮舫さんとか、ポスト福島さんといった「顔」が見えてこない。そうした政党では、人を育てる機能が弱い、または弱まっているということではないかと思うのです。

しかしこれは、社会の多くの分野で見られることなのではと思います。教育が不在だったのではないかと思う所以です。

それでは、人が育つというのはどういうことなのか。「教育」とは、それが不要となることを目的としている営為です。つまり、教えられていない条件・状況にあっても、それを克服し、打開できる力をつけること、と言えるのではないでしょうか。そうでなければ、その組織や社会は「右肩下がり」に陥ってしまいます。

この社会は、それができてこなかった。ともすれば、それを忌避し、徹底的に避けていた。控えめに言っても、それが不得手であったと言えるのではないでしょうか。つまりは、教育の「不在」ということです。

また、いま問題になっていることの一つに「格差」の問題があります。それは、格差が広がるということもそうなのですが、格差によって社会が分断されることがより大きな問題として指摘されています。社会が階層ないし階級的に固定するのではなく、より流動性がある(それは「不安定」ということとは違うと思われます)状態にしておくためには、教育が絶対的に必要となってきます。教育は、社会的上昇のための大きな要因となるからです。

と書いてきて、この社会が教育を忌避してきたことの遠因の一つは、社会内での流動性を好まず、むしろ現状を固定化したいということの現れなのではないかとも思いました。

さて、今まで教育が社会に対して担う役割とか機能といった側面から考えてみたつもりなのですが、実のところでは、社会とは教育、つまり人を育て、人の可能性を開花させるために営まれているのではないかとも思うのです。「教育のための社会」という考え方もまた、成立するのではないでしょうか。

教育を軽んじる社会、それはつまり、人間を軽視し、人間の開花を阻害する社会なのだと言えましょう。そのことを自覚するところから、教育の再生、つまり「人間の再生」ということもまた展望されるのではないでしょうか。

 

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